貴婦人に想う(1)

RANA_sp2006-10-17

むかしむかし。
まだ30代だった頃。
ラジオで聞いた話。
奥日光の小田代原に貴婦人と言う綺麗な白樺があり大勢のカメラマンが紅葉の時季に押し掛けるという。朝日が昇るころ、その白樺に日光が当たり、霧の中から浮かび上がる姿が素晴らしく、それを写したいがために毎年何度も通っていると言う。
 当時の若かった私はそういう写真を心の中で全否定した。天橋立を股のぞきで見る、というような、あまりにお約束事の世界。日本○景を同じ角度から大勢で写す。その頃、写真雑誌(アサヒカメラと日本カメラ)に出ている作品とはあまりに違う写真に対する態度。写真ってもっと自由な表現ではなかったのか、との想いがあった。
 しかし、時は過ぎ、写真雑誌にはそういうアマチュアカメラマン向けの「紅葉はこう写す」「日本の紅葉の撮影地一覧」のような記事が氾濫している。大勢がお約束の場所でお約束のものを写すことに生き甲斐を感じているのだ。誰も写さないものを自由な表現で写す、というのはあまりはやらないらしい。
 その中で、大勢のカメラマンに混じって、小田代原の貴婦人と向かい合う。かって全否定した撮影スタイルを今、行っている。気持ちは被写体にだけ集中しているが、心はさざ波たって定まることがない。
 小田代で撮影することについては、昨年の時点で、「練習、経験のため」と自分のなかでは整理していた。とにかく、デジカメを買って以来、ずっと「練習、経験」なのだから、人が写すものをそのまま写すことはオッケーとしている。
 とはいえ、実際に小田代にくると、貴婦人は湿原の中央に陣取り、圧倒的な存在感で、写真の自由度を阻害してしまう。貴婦人を右に入れる、左に入れる、右上、右下、左上、左下、ひき気味、アップ、ハイキー、ローキーとたいしたバリエーションにならない。何十人ものカメラマンが同時に写しているのだから、今この瞬間にも同じ構図、同じ露出の写真が何人ものカメラマンで量産されているわけだ。どうにも気持ちが落ち着かない。
 人より良いアングルを確保するために少しでも早く来ていい場所を確保する陣取り合戦にもたじたじとしてしまう。
 そういうわけだから、レンズは貴婦人が入り込まない風景を探るようになる。貴婦人を入れる場合もその存在感を消す方向を探る。そんなことをしても、やはり何十人ものカメラマンが撮影しているのだから、似たような写真は誰もが写しているだろうけど、それでも貴婦人を入れないことによって、少しは自分自身の小田代が表現できないものかと思う。
(続く。続かないかも。)