議論

RANA_sp2005-10-01

ある掲示板で、議論が沸騰している。
その内容は横に置いておいて、掲示板での議論や、メーリングリストでの議論がなぜ沸騰するのか考察してみよう。これは非常によく起こることであり、私自身が当事者になったことも何度もある。議論が起こると、相手の(あるいは誰かの)性格が悪いから議論が続くと思いがちであるが、必ずしも正しくない。
まず第一に、これが手紙だったらありえない。手紙なら、中傷的な手紙は捨ててしまえばよいのだ。それでおしまい。
しかし、掲示板やメーリングリストは、他人が見ているので、沈黙は敗北を意味するような気がして、簡単に終えることが出来ない。そうなったときの安全装置として、管理者が居る。管理者が何か言って、それに従えばいいのだ。ところが、それに従わない人がいると、議論は収集がつかなくなる。
これが実際に会って、面と向かって議論できるかというと、実はそうならないことが多い。なぜか。
それは、私たち人間は、言葉だけでコミュニケートしているわけではないからだ。言い換えれば、言葉だけでコミュニケートすることはできないのである。人間は、神でも、ロボットでもなく、単なるサルの一種で、非常に不完全な言語という方法で、コミュニケーションの一部を行っているに過ぎない。
例えば、私たちは、初対面の人でも、その顔つきで、穏和な人,意志の強そうな人、いい加減な人、などの判断をする。脳の中の情報処理の傾向を、外見で判断するいかなる合理的な理由があるだろうか?にもかかわらず、この判断は当たっていることが多く、なおかつ、私たちはそれに従って行動しがちである。つまり、顔つきや、仕草、雰囲気で、私たちは行動しているのだ。この部分がネットでは欠落している。考えてみれば、犬や猫、サルなどはみなそうやって複雑なコミュニケーションをしている。それは無くても良いほど些細なことではなく、人と人がコミュニケートするのに無くてはならないものなのだ。さらには、書き言葉には、声の抑揚もない。というわけで、書き言葉だけによる、しかも匿名性の高いネットでの議論は非常に不完全で、うまくいかないことが多いのだ。
ネット社会が進んだ韓国では、ネットでの激しい意見が世論をリードし、きわめて感情的な意見が社会を動かしてしまうことがあるらしい。幸い、日本では、最大の掲示板である2チャンネルが、きわめて低俗な様を呈し、自ら「便所の落書き」と呼んでいるので、ネット社会がいいという議論は限定的である。
というわけで、ネットでの議論はあまり推奨しない。所詮、いろいろな人がいろいろな意見を述べて、それを参考にして各人がそれぞれ異なった考えて対応するしかないのだ。ネットでは何が多数意見なのかもわからない。ネット上で議論に「勝った」意見が正しいということもないのだ。
ではネットでの議論が意味がないのかと言えば、そうではない。いろいろな意見があることを見るのには役立つ。いい意見なら、耳を傾けるだろう。納得できない意見なら、どんなに議論に勝ってた意見でも納得できない。まあ、所詮その程度で、勝ち負けは関係ない。見ている方はずっと冷静で、勝ち負けは納得と関係ないので、安心して適当に議論を切り上げてください。

ところで。
ヒガンバナ2005」アップしました。